※この記事は有料note2016年夏号に掲載されたものです。

私は、子供と接するときに、いわゆる「子供」と接するようにはしていない。決して自分の教育があっているとか、正しいとか主張したい訳ではなく、これは私の本能的な直感なのだが、

私はこう考えて接している、

子供は外見上は「子供」の形をしているが、中身は「大人」と一緒だ、と。

つまり、私は、子供といいながらも、大人と接するように接しているということなのだが。

これは、あくまでも私の感覚値なのだが、子供がもっている「人間としての感覚」は大人とほとんど一緒ではないかと思っている。もちろん、経験とかそういうのもは圧倒的に少ないが、動物としてもっている感覚や本能はむしろ大人より、そのまんまであるために鋭くて本質的だと。

ただ、子供は人生経験と語彙が少ないので「感じたことを言葉で伝えるのが苦手なだけ」というふうに解釈している。

大人でもよく「モヤモヤした感覚」がうまく言語化できないためにストレスを感じたり、うまく伝えられなくて悶々としたりすることが多いと思うが、

子供はその回数がもっと多いため、それを「喜怒哀楽」という原始的な表現をするのだと。赤ちゃんは不快を表すのに、泣く。嬉しくて、笑う。そんなところからのスタート。

だから、私は、娘を「子供」というより「レディ」として扱う。

子供だから下とか、子供だから弱いとか、子供だからわからないはず、子供だから不用意に叱っていい、大人の言うことを無条件で聞くべきというのは、いわばパワハラに近い感覚。

そうではなく、

「子供は言語化がまだ苦手なだけで、感じてることは一緒」

というスタンスで、彼らのモヤモヤを「いま、どう感じているのか」を「言葉」を、引き出すスタンスで接している。または、「○○っていうこと?」など、感情を、確認しながら、語彙を増やすようにも。

例えは違うかもしれないが、それは、会社での社員との関係ととても似ていると思う。「会社を良くしたい」という想いは一緒だけど、そのやり方や表現の仕方は、経験やアウトプットの回数が違うと、うまくできる人もそうではない人もでてくる。でも、考えている本質や手法は一緒だったりする。

だから上下ではなく、お互いが尊敬と同じ方向・目線で繋がっているというスタンスで接していった方が、共通言語を増やしていく方が、会社がよりよくなる、よりアイディアがでてくるようなイメージだ。

あくまでもこれは私の考え方だが、ただ、「子供は大人が思うより大人」「子供は大人が思うよりいろいろいと気づき、そして、考えている」という確率はかなり高いんじゃないかと強く思う。そうやって接すると、すくなくとも、すごい気づきや発見や学びをもらう。だから子供たちってすごいって、私は思う。