※この記事は有料note2016年9月~11月号に掲載されたものです。

実は私は、いまから6年前くらい、毎日毎日が、不安で不安で、夜も寝れない日々を過ごしていました。

じゃあ、その時、経済的に不安だったとか、周囲に裏切られたとか、辛い事が続いたかというと、そうでもなく。

逆に、当時は前の会社は毎年急成長していて、役員報酬もたくさん頂いていて、株式上場も目前で、「不安」という要素は一般的に見受けられなかったと思う。

じゃあ、なぜそのような状況だったかというと、

当時、たった一人の人の行動に振り回されていたこと。


ある人がしてくれた約束にしがみついていた。果たされる期限がわからず、果たすと良いながらの矛盾した行動。私の中で、不信感が募り、苦しかった。

同じような行動パターンをくりかえされた。その人とは基本的には相性が合わなかったのだと思う。
ただ、いま、私が思うに、

私が弱かったんだ、弱かったというより視野が狭かった。

私は、会社の将来を誰よりも心配しすぎていたし、シングルマザーだった自分の人生を心配しすぎていた。だから、誰か、何か「絶対信じる事が出来るもの」が欲しかったのだと思う。

いまだと、すっかり笑ってしまう。

信じる事が出来るものは自分だけだ。

そして、相手は、悪気があるとかないとかではなく、その人の人生はその人の周囲の事情によって左右されるのだ。永遠に続くものなんてない。

そして、それより、強く、分かった事。

将来を不安に感じる事には全く意味がないという事。

その後に私が経験した事、

肩書きがなくなった、収入が一時期ゼロになった、シングルマザーになった。でも、不安に感じたのは最初の一瞬だけだった、ということ。

働けばまた収入ができるし、離婚したって好きな人は時間が経てば出来るし、シングルマザーになっても子供との関係は良好だし、会社を失っても、仲間は募れば集まるのだ。

そして、きっとその状況は、前より自分にフィットしていて、楽しい。

つまり、「失う事が不安」という、いま、みえないイメージに囚われて生きていく時間ほど、無駄で、その思考こそが無意味な神経衰弱でありロスだということに気づいた。

そして、状況が悪くなっても、何かを失っても、いままで真面目に生きてきたのであれば、

周囲は喜んで手を差し伸べてくれる。これは本当だ。

以前1週間フィリピンに滞在していたのだけれど、どんな日本人もフィリピンに行けば間違いなくハッピーになる。貧しくてもみんなポジティブで、太陽は明るくて、ごはんは安くて美味しい。

苦しくなれば、逃げ場所はたくさんある。

つまり「これしかない」という思考回路は自分を苦しめるだけだ。

「この会社を辞めたら終わりだ」「この会社を追われたらもう生きていけないじゃないか」「この人じゃないといけない」

そんな事は絶対にない。

世界は広くて、時は流れている、固執すれば関係や状況はどんどん悪くなる。もっと緩やかで良い。ムリに手の中におさめておかないといけないものは、維持するのも大変だし、本来自分にはふさわしくないものなんだ。そんなことで苦しむくらいなら、笑顔で手放せば良い。

自分に必要なものは、本当に川を流れる桃のように、どんぶらこと、次の流れにのってやってくるのだ。これは、経験しないと分からないかもしれないけれども、絶対にそうだ。

「ムリに得ようとしなくて大丈夫、無理なものはどうせ相性が合わないもの」「他にも選択肢は沢山ある、本当に沢山ある」「手放せばもっと素敵なものがやってくる」

そんな風に心から思えるようになった時、私の人生から「不安」という文字がかなり薄くなった気がする。