※この記事は有料note2016年3月~5月号に掲載されたものです。

先日、ある女性が、同席している男性に言われた理不尽なことで、怒りを爆発させている姿を見た。そのぶつけ方は凄まじかった。でも、彼女の言っていることは、もっともだった。

実は、常々同じような忸怩たる思いを潜在的に持っていた。私は、自分の考えを言っても伝わらなれば諦め、性別も違えば、価値観も違うしと、上手に境界線を引いて、それ以外の良いところを見ようと、にこやかに、ある箇所をうやむやに、過ごしてきたのかもしれない。

権力におそれず、一人の美しい女性が不愉快さをむき出して歯向かう姿。まるで、「日本死ね」のブログのようなインパクトがあった。その出来事が衝撃的過ぎて、その日はうまく眠れなかったし、数日間そのことで考え続けている自分が居た。なぜ、私はそんなにこのシーンが気になるのだろうかと。

そして、私はぼんやりながら2つの考えにたどり着いた。

まず、そもそも、私は

争いが苦手なのだ。


そして、誰かの乱れている感情や心に触れると、言い表せない哀しさが沸き上がってしまう。もしかしたら、争いから何も生まれないことを、いままで経営に長く携わってきて実感していることもある。そして、争いの根本はどっちかの愛が足りないか、どっちかの感謝が足りないか、だとおもう。ゆえに喧嘩がうまれるという空しさも、何度も感じてきたからかもしれない。

争いをゲームのようにうまく扱えない自分が居るのだ。

でも、目指す理想の社会の実現にむかって、道を切り開くとき、矛盾と戦わなくてはいけないことも多い。リーダーである時、利害関係を調整しなくてはいけない。また、「女性が輝く社会」を実現するには、サービスの提供ばかりではなく、時には、女性と男性が本当にパートナーシップを構築できるような、認識や、価値観の違いに対する意見も述べなくてはいけないかもしれない。

私は、対立構造からは何も生まれないと考えているので、ビジョンや共感できるゴールを共有しながら、徐々に問題を解決していく手法を好む。

だが、「日本死ね」のブログが一気に社会を動かしたリアルな現象を見る時、あの美しい女性の怒りもまた、女性蔑視思考に歯止めをかけるエネルギーになるのかもしれないと感じた。

嫌なことや違和感を感じることを、心の中に押さえつけていると、怒りが爆発する。もしくは、自分らしさが消滅する、そのどちらかなのかもしれない。

不愉快にさせてきた本人に向かって怒りを爆発させることが出来る人は、

自信があり強い人なのだと思う。

彼女はある意味自由だと思った。多くの人はスルーしてきただろう。だから言った本人は相手を傷つけていることも、自分が時代錯誤の発言をしていることすら気づかないから繰り返しているのかもしれない。でも、彼女だけが正面切って怒りを爆発させた。多くの女性が、押さえつけ、フタをしてきた、その真剣な生き方だけが否定されたかのような、男性だから、成功者だからと相手の持論だけが優位に立つようなその理不尽な構造に立ち向かった。いとも簡単に、怒りとして爆発させ、本人に盛大にお返しした。

おそらく、これから日本でいろんなところで、似たようなことが起こるのかもしれない。自分の考えを、女性としての立場を、上手にもしかしたら、時に怒りという形で述べる必要もあるのかもしれない。

そうやって、徐々に、時には急激に、社会が進化してきたのかもしれないし、これからもしていくのかもしれないと思った。

いま前を向いて頑張る女性達は、まさに変化の時代に何かの意味をもって生まれてきたのかもしれない。